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小説「ムンバイに消ゆ」:片山通夫

第五章 混乱の中に<10>

 「女王のネックレス」は何ごともなかったように、白い波を波打ち際に走らせ、そしてすぐに打ち際に打ち寄せては消えていく。海岸線を走る花馬車も観覧車や出店の列も、ほとんど変化はなく、時間の経つのを忘れているかのようである。
 彰彦は、あの絵はがきのことを思いだし、この白い波に消えた児玉徹のことを考えていた。
微かムンバイのことを頭の片隅においたとすれば、この海岸の、蒼い海と白い建物、そして緑の椰子の並木だったろう。かつてはボンベイと言われ、独立後に地名はムンバイとなった。徹はインド宗教に魅せられ、その秘境の虜となったのだ。少なくとも彰彦はそう思っていた。
 それからぷつりと微の消息は途絶えた。むろん、それは彰彦の前からであって、微自身はいまもこの地のどこかに住み着いているのかも知れない。日本に帰ったという噂を耳にしなかっただけのことだが、徹が何を目的にし、何を求めようとしていたのか、彰彦には分からなかった。
 彰彦は、一度、この海岸の近くのホテルで日本人観光客のことを尋ねたことがある。しかし、数多い観光客のなかの、徹に似たような日本人を記憶している者はいなかった。
 二年の歳月は、人々から日本人の記憶を消し去り、その存在すら脳裏の片隅に残らないのだ。彼はもうここにはいないのかも知れないと彰彦は思った。
 椰子の木陰のほうから、暖色系のサリーに身を包んだマムタ・デシュパンデを認めると、彼女は小走りに彰彦のほうにやってきた。
(明日に続く)
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Author:michio_k
サハリン残留朝鮮人の生活をライフ・ワークに、ビデオ、写真、文章など、あらゆるツールを使って記録しているフォト・ジャーナリスト。